生誕は西暦を用いて明記
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38代 天皇 天智天皇 在位 668年 - 671年12月3日/斉明9年〜天智9年

生没 626年〜671年/推古34年〜天智10年
(てんじてんのう)




国風諡号 天命開別尊(あめみことひらかすわけのみこと)
御名
葛城皇子天命開別尊(かつらぎのみこあめのみことひらかすわけのみこ)
俗名
中大兄皇子(なかのおおえのみこ)
幼名
葛城皇子(かつらぎのみこ)




舒明天皇(田村皇子)
皇極天皇(宝皇女)
同母兄弟
間人皇女・天武天皇(大海人皇子)
皇后
倭媛王
蘇我越智娘・蘇我姪娘・阿倍橘娘・蘇我常陸娘
妥女
伊賀宅子娘
  忍海色夫古娘・栗隈黒媛娘・越道伊羅都売額田王・(鏡女王
大田皇女・鵜野讃良皇女・建皇子・御名部皇女・阿閇皇女・大友皇子・志貴皇子・大江皇女
川島皇子・泉皇女・新田部皇女・明日香皇女・山辺皇女・水主皇女





略  歴
 
旧暦
   
645年

大化元年
6月12日
大化の改新
乙巳の変
(いっしのへん)
中臣鎌足(なかとみのかまたり) と共に当時有力な力を持っていた豪族・蘇我入鹿そがのいるか)を暗殺
飛鳥板蓋宮で蘇我倉山田石川麻呂が三韓(高句麗・百済・新羅)の贈品を天皇の前で述べるのが合図で佐伯子麻呂と葛城稚犬養網田が実際には手をくだす予定だったが怖じ気付いたか行動に移さず中大兄皇子自ら刃を向けた(とどめを刺したのは子麻呂と網田)
6月13日   蘇我入鹿の父・蝦夷(えみし)邸内に火を放ち自害
    古人大兄皇子 吉野へ出家
6月14日   軽皇子(孝徳天皇)を即位させ元号を大化(最古の元号)として立太子する  都=難波
    鵜野讃良皇女(第2御子) 誕生
9月12日   吉野にて古人大兄皇子刺客により殺害(謀反をかけられ処刑/11月30日?)
  8月
公地公民の法
(こうちこうみんのほう)
各豪族が支配していた土地及び人民を総べて国のものとする法 *
(治水工事・道路工事・建築工事・国の仕事)
   
班田収授の法
(はんでんしゅうじゅ)
国の土地となった田畑は等しく人民に分け与えられるという法 *
    祖・庸・調の税制の定
(そようちょうのぜいせいのさだめ)
祖((そ)稲収穫の一部)・庸((よう)労働あるいは布織物)*
649年 3月25日 倉山田石川麻呂謀反事件 異母弟の蘇我日向(そがひむか)の讒言(ざんげん)により倉山田石川麻呂(大化の改新・功労者)に謀反の疑いをかけ、大和の山田寺へ追い込み自害させる
650年
白雉元年
2月9日 元号が変わる 穴戸(長門)国司が白いキジ白雉(はくち)を献上
2月15日 9日の白いキジの献上を記念して元号を「白雉」とした
651年     越智娘(第2妃) 死去
653年     都を飛鳥へ戻す
654年 10月10日   孝徳天皇 崩御
655年
斉明元年
1月3日 元号が変わる 宝皇女を重祚 斉明天皇とし、立太子のまま任務 
658年 5月   建皇子(第4御子) 死去
11月11日
有間皇子の変
謀反の疑いをかけられて藤白坂で処刑 *
660年    

友好国の百済が唐・新羅に滅ぼされる
朝廷に滞在していた百済王子・扶余豊璋(ふよほうしょう/百済最期王・義慈王の子)を送り返す
その後、戦に協力する

661年 1月8日   瀬戸内海・大伯へ船団を止める  
3月25日   那の大津(現在の博多湾あたり)へ到着  本営=朝倉(朝倉橘広庭宮)/筑紫
7月27日   斉明天皇 崩御
663年   百済の都 扶余に接する白村江(はくすきのえ)<韓国・忠清南道の錦江>にて唐・新羅に敗北
664年 2月9日
甲子の改革令
26階の新しい冠位を制定する *
665年 2月25日   間人皇女(同母妹) 崩御
667年 2月   大田皇女(第1御子出産・大伯皇女)
3月19日   都=近江へ移す
668年
天智元年
1月3日
即位
天智天皇となる 元号 天智(てんじ)へ
  5月5日   蒲生野 薬猟(がもうの くすりがり) 
669年     中臣鎌足倒れる 大織冠(たいしきかん)の位を与える 性を藤原と名乗らせる
10月16日   中臣鎌足 死去
670年   庚午年籍  制定
(かのえうまねんじゃく)
日本最初の全国的な戸籍 *
671年   政府最高主脳人事発令  太政大臣=大友皇子(第3御子) 皇太子=大海人皇子 *
4月25日
漏刻台 完成
(ろうこくだい)
660年から約11年に渡って作られた
日本最古の時計 時の記念日はこの日の太陽暦を制定されている *
12月3日
崩 御
46才で死去 胃ガンだったと言われている   
672年  
山科陵 完成
山科陵(やましなのみささぎ/京都府京都市山科区御陵上御廟野町)  




・天智天皇に纏わる詩・
万葉集第1 13番 万葉集第1 14番 万葉集第1 15番
万葉集第2 91番  懐風藻  1番  





天智天皇からみた家系図






38代天皇(すめらみこと)として即位して藤原家と子をなし天皇家を存続させて行く。

645年の大化の改新から758年まで約113年に及びましたが実際の天智天皇の在位は10年と短いです。
もっと早くに即位し長く任期を勤める事が出来る様に思えますが、その即位を妨げたのは様々な意見があります。
天智の女性関係に対しての反発から即位が遅れたとする説で孝徳天皇の正妃・間人皇女(天智の同母妹)と中大兄皇子(当時)の
不倫関係を示唆されてのことです。
明治時代に改訂された天皇家一覧には天智天皇の即位は661年7月24日 - 671年12月3日となっているのですが、
別記にの即位には668年とされていたのでそれを採用しています。

女性
最初鏡王の娘・鏡女王(采女)と結婚していた。
が、その後鏡女王を中臣鎌足に娶らせその頃弟・大海人皇子と結婚していた(子・十市皇女)額田王(鏡女王の妹)を離婚させて自分の元へ嫁がせる。
<この時、鏡女王は懐妊していて中臣鎌足の息子、不比等は中大兄皇子の子供という説もある>
また、同母妹・間人皇女とも男女関係にあった。
子供
13人(14人?)4男9女をもうけるが、が産む男子には恵まれない。
唯一遠智娘(嬪)の産んだ建皇子が居たが幼くして亡くなった。
  ・・妻・・

 

蘇我越智娘(そがのおちのいらつめ/造媛・茅渟娘・美濃津子娘)

蘇我倉山田石川麻呂の娘 姪娘の姉
1男2女(大田皇女・鵜野讃良皇女・建皇子)を授かる
当初、天智の妻には姉である娘が婚約をしていたのだったが約束の日父の異母兄妹・身狭臣(蘇我日向/ひむか)が姉娘を奪ってしまい父の途方に暮れている姿みて自ら名乗りを上げて天智の元へ嫁いだ。
しかし乙巳の変以後の649年 3月
父が異母兄妹・日向の讒言により自害させられその妻子も多く自害した。
その報に接し、悲嘆の中で建皇子を出産し間もなく死を迎えたと言われている。

蘇我 姪娘(そがのめいのいらつめ/桜井娘)

蘇我倉山田石川麻呂の娘 越智娘の妹
2女(御名部皇女・阿閇皇女)を授かる
  阿倍橘娘(あべのたちばなのいらつめ/号:阿倍夫人)

阿倍倉梯麻呂(内麻呂)の娘
2女(新田部皇女・明日香(飛鳥)皇女)を授かる
681年2月29日亡くなったと伝えられる。
  越道伊羅都売(こしみちのいらつめ:贈太皇太夫人)

1男(志貴皇子)を授かる。
785年曾孫・桓武天皇により、太皇太夫人と朝臣姓を追贈される。
  伊賀宅子娘(いがかやこのいらつめ/伊賀采女)

1男(大友皇子)を授かる。
648年に出産する。
  忍海色夫古娘(しこぶこのいらつめ)

忍海造 小竜(大和国忍海郡の豪族)の娘
1男2女(大江皇女・川島皇子・泉皇女)を授かる。
657年1人息子川島皇子を出産
  蘇我常陸娘(そがひたちのいらつめ)

蘇我赤兄 の娘
1女(山辺皇女)を授かる。
  栗隈黒媛娘(くろひめのいらつめ)

栗隈首 徳万(山城国久世郡栗隈の豪族) の娘
1女(水主皇女)を授かる。
 ・・皇子/皇女・・
  建皇子(たけるのみこ)

蘇我越智娘の子
大化の改新の翌年生まれたと同じ年、母を失っている。
が建皇子の非運はそれだけではなく生まれつき口がきけなかったと言う説がある。
また、8才でこの世を去る。
建皇子墓(奈良県高市郡高取町大字車木)は斉明天皇の越智崗上陵(おちのおかのえのみささぎ)の横に合葬された。
  明日香皇女(あすかのひめみこ/飛鳥)

阿倍橘娘の子 新田部皇女の妹
天武天皇の天武第4皇子(9子説あり)忍壁皇子の妃

694年 持統天皇が明日香皇女の為に僧を出家させる          
700年 死去 (挽歌)♪ ♪ ♪
  水主皇女(もひとり/みぬしのひめみこ)

黒媛娘の子
斎宮として参内する予定だったが身体が弱く参内できなくてその時に見舞われた歌(万葉集)が残されている。
  泉皇女

伊勢斎宮(在任701〜705)として参内
5年という長い潔斎ののちに伊勢に赴いた斎王





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