40代 天皇 | 天武天皇 | 在位 673年3月20日−686年10月1日/弘文2年2月27日〜朱鳥元年9月9日 生没 631年−686年10月1日/舒明3年〜朱鳥元年(9月9日) |
(てんむてんのう) |
国風諡号 | 天渟中原瀛真人天皇(あまのぬなはらおきのまひとのすめらみこと) |
御名
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明神御大八洲日本根子天皇(あかつみかみとおおやしまぐにたしろしめすやまとねこのすめらみこと) |
俗名
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浄御原天皇(きよみがはらのすめらみこと) |
諱
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大海人皇子(おおあまみこ) |
父
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舒明天皇(田村皇子) | |
母
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皇極天皇(宝皇女) | |
同母兄弟
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天智天皇(中大兄皇子)・間人皇女 | |
皇后
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持統天皇(鵜野讃良皇女) | |
妻
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妃
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大田皇女▽・大江皇女▽・新田部皇女▽ |
夫人
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藤原氷上娘・藤原五百重娘・石川大ぬ娘▽ | |
額田王・胸形(宗像)尼子娘▽・宍人梶媛娘▽ | ||
子
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十市皇女▼・高市皇子・大伯皇女・忍壁皇子・草壁皇子・大津皇子・穂積皇子・長皇子・弓削皇子・ 泊瀬部皇女▼・ 但馬皇女・新田部皇子・舎人皇子・紀皇女・田形皇女▽・磯城皇子▽・多紀(託基)皇女▽ |
旧暦
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668年 天智元年 |
4月10日 | 中大兄皇子が天智天皇へ即位し立太子される | |
5月5日 | 蒲生野 薬猟(がもうの くすりがり) ♪ | ||
6月19日 | 酒宴の席上、酩酊した大海人皇子が、兄の天智天皇の面前に長槍を突き刺すという事件が起る (この時大友皇子の笛で剣舞を舞わさせたと言われている) 天智天皇は死罪を言い渡すが、中臣鎌足のとりなしでその場はおさめられた |
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671年 | 1月2日 |
政府最高首脳人事発表
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太政大臣に大友皇子が任命され他、五大官が様々におかれるなか、 皇太子の侭おかれ事実上政治面から外される * |
10月17日 | 9月に天智天皇が倒れ、それより前から健康を害したとして療養していたが 天皇の元へ赴く様命じられ(大友皇子を押しやり天皇になる野心を持っているか問う為) 大友皇子(弘文天皇)を推挙し、自ら出家を申し出る |
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吉野(奈良県吉野)の宮滝へ出家する ♪ | |||
12月3日 |
天智天皇 崩御
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吉野に隠ったまま、殯には訪れない | |
672年 | 5月 |
壬申の乱
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大友皇子が即位し、朝廷が武装して奇襲する段であることを知る |
6月24日 | 身の危険を感じ吉野を出立 伊賀から鈴鹿関(三重県亀山市)を経由して、東国の美濃に逃れた |
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6月26日 | 朝廷軍の迹大川(とほがわ)の畔で禊(みそぎ)の儀式を執り行う* | ||
6月27日 | 桑名に皇后や小さな皇子を残し不破(岐阜県不破郡関ヶ原町)に向けて進軍 野上に行宮(あんぐう)を建て本営とする |
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6月29日 | 高市皇子進軍する | ||
朝廷軍は内輪もめで将軍同士が殺し合い、前線を勝手に去るものも出る その中見切りを付けた羽田公矢国(はねだのきみのやくに)と三百の部下は大海人軍に投降する |
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7月13日 | 朝廷軍は安河での戦いで大敗し後退する | ||
7月17日 | 栗太(くるもと)の防衛線をも突破、朝廷軍をさらに後退させる | ||
7月22日 | 羽田公矢国将軍らは三尾城を攻め落とし倭の地を落した | ||
将軍 大伴吹負(おおとものふけい)は難波に進軍し国司に正倉(しょうそう) 兵庫の鍵を提出させ実権を握る |
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瀬田の合戦(滋賀県大津市)朝廷軍大敗 | |||
7月24日 | 大友皇子が自決 壬申の乱、終結する | ||
7月26日 | 野上本営へ凱旋 | ||
8月25日 | 朝廷側の重臣に刑が発令 | ||
8月27日 | 大海人軍に功労賞が与えられる | ||
9月 | 大海人皇子 桑名へ戻る | ||
672年 | 飛鳥浄御原(あすかきよみがはら/奈良県高市郡明日香村 )に新宮殿 完成 ♪ | ||
2月27日 | 大海人皇子 即位 天武天皇 | ||
673年 | 11月 | 大嘗祭(おおにえのまつり) | 天皇が即位後始めて行う新嘗祭(にいなめさい)* |
伊勢斎宮に娘・大伯皇女を任命する |
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675年 | 1月5日 | 天文を観察し、吉凶を占うために日本初の占星台を建設する。 | |
2月9日 | 部曲(かきべ)廃止の詔 | 豪族の弱体化策の為に部曲(豪族の私有地)を国のものにした ♪ | |
4月17日 | 食封制度 | 牛・馬・犬・鶏の肉を食べることが禁じられる | |
678年 | 4月7日 | 泊瀬斎宮に娘・十市皇女を見送るが、十市皇女は急死する | |
679年 | 吉野の誓い | 皇位継承の争いを防ぐため皇子たちに誓いをさせた | |
星祭 | 田銀安槌と高市皇子に相撲を取らせその褒美として勝った高市皇子に正妃として 御名部皇女を娶るように命じる |
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680年 | 11月12日 | 薬師寺建立計画立案 | 皇后の病気回復を祈願して薬師寺建立の願をたてる |
681年 | 2月25日 | 治世10年 草壁皇子を立太子する | |
律令制の制定計画発表 | 律(=刑法)令(=法令)制 * | ||
3月17日 | 修史事業の企画 | 古来よりの言い伝えられている歴史を纏め歴史書を作る計画 (日本書紀編の出発点 担当責任筆頭=川島皇子・忍壁皇子・4人の王・6人の高官) |
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683年 | 2月1日 | 大津皇子を正式に政治参加させる発表をする | |
10月13日 | 倉梯で天皇主催の狩りが行われる | ||
684年 | 10月1日 |
八色の姓(やくさのばかね)制定 |
上から真人(まひと)朝臣(あそみ)宿禰(すくね)忌寸(いきみ) 道師(みちし)臣(おみ)蓮(むらじ)稲置(いなぎ)とする |
684年 | 7月23日 | ハレー彗星 観測 | 1ヶ月間輝き続ける * 日本最古の観測記録 |
10月14日 | 大地震 | 午後10時頃 大平洋プレートとフィリピンプレートがぶつかった為に起きた (マグニチュード8.25/土佐その他南海・東海・西海地方) 伊豆では海底が隆起して島が出来たとも言われる |
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11月21日 | 流星群 | 夕刻より〜23日で観測された | |
686年 | 7月20日 | 朱鳥元年 制定 | 前年天武天皇が倒れた事により制定されたという説がある この頃は元号は途切れ途切れにつけられていてめでたい事や悪い事が重なったりする と制定することがあった |
686年 | 9月9日 |
崩御
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687年 | 10月 | 檜隈大内陵 完成 |
檜隈大内陵(ひのくまのおおうちのみささぎ/奈良県高市郡明日香村大字野口 ) |
688年 | 11月11日 | 大内陵に葬る |
・天武天皇に纏わる詩・ | |
万葉集第1 21番 | 万葉集第1 25番 |
万葉集第1 27番 | 万葉集第2 103番 |
大化の改新・応仁の乱の時代に生き、応仁の乱の主役と言える人物。 |
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女性
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一番最初の妻は額田王と言われています。 額田王は十市皇女をもうけ出産しますが、 数年後、天武天皇と離婚し天智天皇の元へいくことになります。 その後でもお互いに気持ちを通わせていたのではないかという様に伝えられます。 それは668年の蒲生野の薬狩りでの 紫の匂(にほ)へる妹(いも)を・・・という歌です。 しかし、これもまた万葉集では相聞歌ではなく雑歌に入れられている事から宴での余興の様に歌われた歌では無いかと言う説もあります。 しかし個人的な見解ですが、万葉集は完成迄かなりの年月が経過しているもので天皇同士が1人の女性を争った等と言う事を残さない為にそうしたのではないかとも考えられますね。 |
・・妻・・ | |
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大田皇女(おおたのひめみこ) 天智天皇と蘇我遠智娘の娘 鵜野讃良皇女の姉 1男1女(大伯皇女・大津皇子)を授かる 661年1月 筑紫遠征に同行し大伯海にて、大伯皇女を出産 663年 大津皇子を生む 665年 この頃薨去 667年2月27日 埋葬される(斉明天皇・間人皇女合葬陵の越智崗上陵[おちのおかのえのみささぎ]:奈良県高市郡高取町大字車木の前に葬られる) 大田皇女は元々は正妃でした。 大田皇女がこんなに早く亡くなる事がなければ、歴史は大きく変わった事でしょう。 幼い時、父の差し金で祖父を失い、その心労から母を失い長女として幼い2人の妹弟を守らなくてはいけなかったのでしょう。 その心労から大田皇女は短い一生を終えたのかも知れません。 |
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胸形君 尼子娘(むなかたのきみ あまこのいらつめ) 胸形君徳善(筑紫宗像郡の豪族) の娘 1男(高市皇子)を授かる |
宍人臣 椒媛娘(ししうどおみ かじひめのいらつめ:椒媛・宍人娘) 宍人臣 大麻呂の娘 2男2女(忍壁皇子・泊瀬部皇女・磯城皇子・多紀(託基)皇女)を授かる |
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蘇我 大ぬ娘(そが おおぬのいらつめ:号 石川夫人) 蘇我赤兄の娘 1男2女(穂積皇子・紀皇女・田形皇女)を授かる 672年 壬申の乱、父・蘇我赤兄流罪 673年 天武天皇即位、夫人となる 724年 薨逝 正三位(7月13日)、正二位を追贈 |
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大江皇女(おおえのひめみこ) 天智天皇と忍海造 色夫古娘の娘 2男(長皇子・弓削皇子)を授かる 699年 薨逝 浄広弐位(12月3日) |
新田部皇女(にいたべのひめみこ) 天智天皇と阿倍橘娘の娘 1男(舎人皇子)を授かる 699年 薨逝(9月25日) |
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・・皇子/皇女・・ | |
磯城皇子(しきのみこ) 宍人臣 椒媛娘との子 686年 食封200戸を与えられる 686年 殯の場での大津皇子の謀反を扇動した罪で皇子の身分を剥奪 |
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多紀皇女(託基/たきひめみこ:当耆内親王 たきないしんのう) 701年 卜定(ぼくじょう)で泉皇女が選ばれ退位 |
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田形皇女(たがたのひめみこ) 707年 文武天皇崩御により退位 |
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